独特の作風と人生観で、今も尚根強いファンから支持を得ている太宰治。
近代日本文学の代表的存在ともいえます。
『人間失格』など数々の作品を生み出した太宰治ですが、実はその遺伝子を受け継いだ子供たちが存在するようです。
しかも、子供たちも文豪作家として活躍しています。
一部では、息子がダウン症だという噂もありますが、真相が気になるところですね。
太宰治とその子供たちの知られざる私生活に、スポットライトを当ててみましょう。
Contents
太宰治の恋愛遍歴と子供について
太宰治にはそもそも子供がいるのでしょうか?
39歳のときに玉川上水で自ら命を絶った太宰治ですが、実はこのような家系図を持っています。
家系図を見る限り、本妻と愛人の間にそれぞれ子供がいるようですね。
そして娘が作家という情報もあるので、事実がどうか確認します。
さっそく太宰治の子供たちの詳細を、確認していきましょ~
嫁・石原美知子との子供
太宰治のには、本妻と愛人がいたようですが、本妻はどんな女性なのでしょうか?
実は太宰治、様々な女性と浮名を流しながらも1939年に地理及び歴史の教員であった石原(旧姓)美知子と結婚しています。
正式に籍も入れているので、石原美知子が本妻ということですね。
お二人は1938年(昭和13年)に太宰の先輩である・井伏鱒二の紹介でお見合いの末出会います。
石原美知子は、東京女子高等師範学校を卒業後、地元である山梨の女学校で地理の教員をする教養豊かで知的な女性でした。
翌1939年には荻窪にある井伏鱒二の家で、結婚式も挙げています。
石原美知子と太宰治の間には一男二女が誕生しています。
奇抜な世界観で知られる太宰治ですが、本妻との間にも子供がいたんですね。
生前は、案外素朴な幸せを大事にする人柄だったのかもしれません。
愛人・太田静子との子供
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%9D%99%E5%AD%90
本妻との間には子供がいた太宰治ですが、実は複数の愛人がいました。
以下が太宰治の愛人たちです。
♦小山初代
♦田部シメ子
♦太田静子
♦山崎富栄
このうち、太田静子との間に1人の娘がいます。
太田静子は現・実践女子大学家政科に進学。
学生時代から文才がありました。
もともと太宰治にファンレターを送り、太宰が返信をしたことで親しくなった太田静子。
太宰治の『斜陽』に出てくる女性は、太田静子をモデルにしているといわれています。
滋賀県の開業医の子供だった太田静子は、とても厳しい躾けのもと育ちました。
弟の勧めで国文科への転化を希望しますが、隠していた両親にバレて、中退することになります。
東芝社員・計良長雄と結婚するも、生まれて間もない子供が亡くなるなど波乱万丈の人生を歩んでいます。
その後太宰治と出会い、恋に落ちますが、妊娠を知らせると太宰の態度は一変。
捨てられてしまい、太宰治亡き後は10万円の手切れ金とともに「『斜陽』および太宰治に関する言動を一切慎むよう」要求されます。
また、本妻である津島家からはヒドい扱いを受けました。
1982年に肝臓がんで人生の幕を下ろしますが、かなり紆余曲折ある濃い人生だったのですね。
今のようにSNSがある時代だったら、太宰治との関係についてこっそり言及していても不思議でないと思います。
ちなみに、不倫関係で子供ができたのは太田静子のみだったようです。
太宰治の子供が作家デビュー
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%B0%E6%B2%BB
続いて、太宰治の子供が作家デビューしたという噂に切り込んでいきます。
太宰治には本妻・愛人の間に子供がいますが、作家デビューしたのはどちらの子供なのでしょうか?
さっそく、作家デビューした太宰治の子供について確認していきます。
本妻の子供・津島佑子の作家としての経歴について
太宰治の子供で作家デビューしたのは、誰なのでしょうか?
本妻・美知子との間には、二人の女の子が誕生していますが、実はそのうち次女である里子が作家デビューしているようです。
ペンネームは『津島祐子』
昭和~平成の現代文学の代表的な女性作家として知られていますね。
代表作としては、以下の作品が挙げられます。
♦『夜の光に追われて』
♦『火の山-山猿記』
『火の山』は、朝ドラ『純情キラリ』の原作です。
著作品の多くが、フランス語や英語、ドイツ語やイタリア語など、多くの言語で翻訳されるほど評価されているようです。
1971年に、自身の生い立ちである母子家庭をテーマにした作品集『謝肉祭』を刊行し、1972年に長女を授かっています。
しかし、夫とは離婚。
その後、新たな恋愛に踏み出すも再婚することなく破局しています。
このときのお相手とも息子をもうけていますが、なんと息子さんは呼吸困難で亡くなっています。
自身の孤独を糧に、創作活動に勤しみ、世界観の拡大を図りました。
1998年に刊行した『火の山-山猿記』は母方の祖父で地質学者・石原初太郎をモデルとした作品です。
なんとこの作品は5年もの歳月を費やして出来上がったといわれています。
湾岸戦争や東日本大震災など、社会問題をテーマにした作品も手掛けるようになり、戦争孤児の作品『ヤマネコ・ドーム』やアイヌをテーマにした作品『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』などは代表作として知られています。
文体自体は、独特です。
ある意味、不思議で不可解な感覚を引き起こすので、好き嫌いは別れるのではないでしょうか。
太宰治は、津島里子が1歳のときに亡くなっています。
そのため、父との記憶はほとんどありません。
しかし、文才やその遺伝子は引き継がれているのでしょう。
愛人の子供・太田治子の作家としての経歴について
太田治子
出典:朝日新聞
本妻との娘が作家デビューしているとのことですが、実は愛人・太田静子との間に誕生した娘・太田治子も女性作家として活動しています。
太田治子の代表作としては以下の作品が挙げられます。
♦『手記』
♦『石の花』
♦『母の万年筆』
♦『恋する手』
♦『心映えの記』
♦『津軽』
『手記』は映画化もされています。
また、母・太田静子の影響で美術についても明るく、NHKの人気番組『日曜美術館』のアシスタントを3年間務めたこともあります。
太田静子の看護が一段落した30代で結婚するも、離婚。
娘をもうけていますが、名前は万里子というそうです。
太田治子は2021年現在も健在。
執筆活動を続けています。
太宰治を取り巻く女性たちの、自身の不幸さえも創作活動のテーマにするその意欲の高さは、見習いたいものです。
ちなみに、太田治子は、母・静子と太宰治の関係についてこう語っています。
「(静子は)太宰のことを悪く言うこともあったけど、尊敬していたし、同志として共感し合っていた」
妻がいる人の子を産んだことを謝られ続けていたという太田治子ですが、母が父親のことを人間として尊重していたことは理解していたんですね。
太宰治の長女・津島園子は厚生大臣の妻
津島園子さん
出典:産経ニュース
また、本妻・石原美知子との間には、園子さんという娘もいます。
津島園子は、太宰治にとって長女にあたります。
なんと彼女は、元大蔵官僚で自民党衆議院議員で厚生大臣を務めた津島雄二と結婚しています。
お二人の間に誕生した長男・津島淳(太宰治からみて孫)も衆議院議員として活動。
津島園子は、複数いる子供の中でも特に精力的に、太宰治の功績を残しています。
太宰治展や太宰治賞にも、協力的だったそうです。
彼女自身は油絵が好きで、太宰治の作品にも『油絵の絵画』がよく出てきます。
大きな展覧会を開くほどですので、太宰治から文化的な影響も受けていたのではないでしょうか。
太宰治の子孫の現在について
画像引用元:https://kagerou-kazoku.com/yuko-tsushima
では、太宰治と子孫たちは現在どうなっているのでしょうか?
2020年上半期に、芥川賞候補となった『紅い砂を蹴る』という小説の作者は、太宰治の孫・石原燃(いしはら ねん)です。
◆孫・石原燃は劇団劇作家
1972年うまれの石原燃は、劇団劇作家に所属していたという経歴の持ち主です。
退団後は燈座(あかりざ)で戯曲の執筆をしていました。
2016年に津島祐子が亡くなったことをきっかけに、小説を手掛けるようになります。
どうやら、石原燃は太宰治にあまり関心がないようです。
その代わり、母・祐子の影響が強く、子供との死別など、親子関係をテーマにした作品を発表しています。
本人はこれからも多様なテーマで書いていきたいと語っていますので、今後の作品がとても楽しみです。
祖父である太宰治とは作風が違いますが、現代社会を生きる人々の胸を撃つ作品を創り上げる作家として知名度が上がっていくでしょう。
太宰治と子供たちとの親子仲について
画像引用元:https://raq-hiphop.com/books-dazai-osamu/
最後に、太宰治と子供たちの親子仲についてお話しします。
複数の女性との間に子供をもうけた太宰治、お相手の女性はもちろん、子供達にも多大な影響を与えています。
文豪の子供であると同時に、不倫をして自ら命を絶った人物の子供であるというレッテル…
子供達に罪はありませんが、父親との関係に悩んだことも容易に想像できます。
父・太宰治とはどのような関係を築いてきたのでしょうか?
太宰治と津島佑子の関係
本妻・石原美知子との間に誕生した次女・佑子は小説家として活躍。
やはり作品の中には、太宰治への複雑な思いが描かれているものもありました。
太宰治は佑子が1歳のときに亡くなっているため、父と過ごした時間は少ないですが、心の中には暗く思い影を落としています。
『山のある家 井戸のある家』ではこんな一文も見受けられます。
「父について誰にも何も聞かれないようにと幼い頃から願っていた」
子供として、まして女の子であれば当然そう願いますよね。
やはり佑子は、複数の女性と関係を持った父の影響で「男性は家庭を裏切る」という価値観を植え付けられてしまったようです。
小学校4年生のとき、ついに同級生から父親のことを聞かれた際に、図書館の辞書で調べたといいます。
その際、司書の先生に『入水』の意味を尋ねてしまったそう。
先生も困惑したでしょうね。
太宰治の才能を受け継ぎつつも、どこか物悲しく影のある感受性を持ち合わせているのは事実でしょう。
太宰治と太田治子の関係
太宰治と不倫関係にあった太田静子ですが、娘の太田治子は太宰治に一度も会ったことがなかったといいます。
それでも太宰治は自身の名前の『治』を取って、愛人との子供に『治子』と名付け、認知しました。
治子を認知することを証した太宰直筆の手紙
女手一つで育った太田治子は、画家・小説家として活躍。
晩年には、両親への想い、自身の生い立ちを描いた作品『明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子』を発表。
治子は自身が私生児であるという事実と向き合うのを恐れ、長らく太宰治の作品を読むことができなかったそうです。
自身の母親をモデルにした作品『斜陽』に対しても、複雑な思いを抱いていました。
それでも、唯一の肉親・静子が精一杯頑張る姿をみて、それぞれの生き方を肯定し、尊重することができたといいます。
また、『斜陽』は婚外子が多いフランスでよく読まれているそうです。
そのことは、治子にとっても大きな励ましとなりました。
離婚を経験している治子ですが、母と父の特殊な生き方を受け入れたおかげで、どんな人生を歩んでもいいんだと自身を肯定することができたのではないでしょうか。
まとめ
今回は、太宰治の子供達についてお話ししました。
要点をまとめていきます。
♦太宰治には本妻との間に一男二女、愛人との間に1人の娘がいる
♦本妻との次女と愛人との子供は、作家としてデビュー
♦長女は衆議院議員で元厚生大臣の津島雄二と結婚
♦息子はダウン症で、15歳の若さで亡くなる
♦子供たちはそれぞれの分野で活躍しているが、太宰治の影響で複雑な人生を歩んだ時期もあった
伝説的文豪である太宰治ですが、こんなにたくさんの子供がいたんですね。
破天荒な生き方をしてきたためか、子供達との関係はやや複雑なものとなっていました。
しかし、子供たちはその暗い過去までも糧にしてそれぞれの創作活動に励んでいます。
太宰治の根強いファンにとっても、子孫や子供たちの存在は尊いものなのではないでしょうか。
今後も太宰の子孫たちの活躍に、注目しましょう。